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北魏
北魏を代表する窟として259窟があり、二仏座像、仏座像、交胸像・思惟像等がある。北涼を減ぼした北魏の影響があり、雲岡の仏像や麦積山石窟の初期の造像と共通するところがある。263窟の西夏の壁画の下から北魏の壁画が出てきており、当時の美しい色彩を堪能することができる。
西魏
塑像は、痩せた体躯に漢式衣制の仏像が風靡する。285窟の本尊は奇座で、肩がはり、胸が偏平であるのがいかにも西魏の特徴が出ている。壁画には白亜の地にコバルト。緑青などを使用しているので明るくさわやかな雰囲気に包まれている。この色調がこの時代の特徴でもある。249窟の西壁の寵の間には、ヴィシュヌ神、シヴァ神、ヴァス神などのインドの諸神等が描かれているが、この西壁だけが西方的であり、残りの壁は中国的であり当時の物の考え方の一端が窺われる。
北周
北周の壁画は、仏伝や本生を細長い帯状に現すようになった。説話の内容を一コマ一コマ連続して表現し、分かり易くなっている。290窟の前屋部には東西の両斜面を各々3段に分け、釈迦の誕生から成仏に至る一生を描いている。
隋代になると塑像は、丸々とした童顔のような面相、柔軟な体つきの、斉周様式と呼ばれる造像が出てくる。419,420窟の本尊は北周様式であるが、427窟の仏三尊になると階の特徴である、顔が大きく顎がはってやや厳つい感があり、体躯は堂々としてくる。釈迦説法を現した三尊像が盛んに造られる。305窟の壁画は窟の四壁を千仏で埋められ、大井には日月、飛天、風車などが表された西魏以来の伝統が続いている。390窟には多くの樹下説法図が描かれているが塑像と対応したものである。
唐初代高僧は晴夫の大乱を平定、次代太宗は均田制、租庸調などを整えて国家の基礎を固め、西域経営にも力を入れ始める。そのための要衝敦煌には天に豊穣を祈る杜稜壇や17を数える大寺院が建てられた。一方、敦煌の有力者は競って莫高窟に石窟を開き、その数は全体の半数近い200以上、塑像は670体の多きに達し、第96窟の33mの仏像、第130窟の26mの大仏等が作られている。

 

初唐
322窟の西壁籠の七尊像は保存が良く当時の面影をよく保っている。晴に比べて塑像のプロポーションは的確になっているが、体躯は細く、全体にぎこちなさがあり、動きも少ない。壁画では、220窟に普賢、文殊、西方浄土変、薬師浄土変、説法図等が描かれており、維摩は激論を戦わしている姿で表され、冷静な文殊と対照的に描かれている。このように人物観照がこの時代に進んだ。57窟の千仏・説法図、329窟の夜半楡城、乗象入胎等が有名である。
全体的に壁画を通観すると、この時代は、晴に続いて中原の様式やその優れた技術が、さらに急速に伝播していることが窺われる。
積極的に進められた西域経営によって敦煌の重要性が増し、中央との接触が密になった故である。
盛唐
第3次高宗の代になると、唐朝は日本、インドをはじめ、東ローマや中近東とも交流し、世界帝国の観を呈した。敦煙も東西交流で大いに栄え、莫高窟には数々の新風が生まれている。塑像は仏、羅漢、大王を配置する五尊形式が流行し、浬繋像もつくられた。壁面には浄土信仰を反映して、「弥勒変」などの浄土変相図が多く描かれたほか、「法華変」「維摩変」「報恩変」なども見られる。塑像はますます写実主義になっている。全体に白、朱、緑、青、黄、金などの彩色がほどこされている。96窟、130窟の大仏はこの時期の作品である。壁画は壁面一杯に大画面の浄土図が描かれ、技術的にも一層充実してくる。また、経典の背景に描かれた由水は遠近法を取り入れている。

 

 

 

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